――それから二時間半ほど、わたしたちはクリスマスの楽しいひと時を過ごした。 オープンサンドやパイシチュー、ローストビーフなどのごちそうに、里歩が差し入れてくれたフライドチキン、そしてわたしお手製のクリスマスケーキがテーブルに並び、BGMにはクリスマスソングが流れていた。 わたしがワイルドにフライドチキンを頬張る姿に貢は目を丸くしていたけれど、「おかげで自然体の絢乃さんが見られて親近感が湧きました」と彼は嬉しそうだった。 手作りのケーキは白いホイップでデコレーションしたイチゴショートで、実は香りづけ程度としてスポンジにリキュールを少し入れていた。父は甘いものがあまり得意ではなかったためだ。でも、娘であるわたしが作ったお菓子は喜んで食べてくれていた。楽しみにしてくれていた父に、このケーキを美味しく食べてもらいたいという思いでこのひと手間を加えたのだった。「――それでは、今からプレゼント交換を始めま~す☆ まずはわたしから」 わたしは用意していた三つの包みを、里歩・父・貢にそれぞれ一つずつ手渡していった。「里歩にはこれ。寒い中部活に行く日もあるだろうから、マフラーと手袋ね」「わぁ、ありがとー♡ 大事に使わせてもらうね♪」「パパにはこれ。最近背中が痛そうだから、クッションにしたの」「ありがとう、絢乃」「そして、桐島さんにはこれ。……っていっても、包みの形でバレちゃってるだろうけど、ネクタイです。わたしのセンスで選んでみました」 実は、彼へのプレゼント選びにいちばん悩んだ。父への贈り物は何度か選んだことがあったし、親子なので好みも把握していたけど、若い男性へのプレゼントを選ぶのはこれが初めてだったから。「僕にまで? ありがとうございます。……これ、僕にはちょっと派手じゃないですか?」 包みを開いた彼は、赤いストライプ柄のネクタイに困惑していた。「えっ、そうかなぁ? 濃い色のスーツに合わせたらステキだと思うけど」 彼はまだ若いし、イケメンなのだ。少しくらい派手なネクタイを締めたって十分似合うはずだと思った。「そう……ですかね? ありがとうございます」「んじゃ、次はあたしからね。絢乃、メリクリ~♪」 貢がネクタイを押し頂いたところで、里歩がわたしにプレゼントを手渡してくれた。「っていうか、絢乃の分しか用意してなかったんだけどさ。開けてみ?
「そうだよ。この色、アンタに似合いそうだなーと思って。ちなみにパウダーのコンパクトはこの季節限定のヤツなんだ」 里歩はボーイッシュに見えて、実は美意識が高いのだ。わたしへのプレゼントにコスメを選ぶなんて、そんな彼女らしい。「絢乃さん、〈Sコスメティックス〉ってウチのグループにある化粧品メーカーですよね?」「そう。価格帯が安いから、OLさんとか女子大生だけじゃなくて女子中高生にも人気あるみたい」「へぇ……」 〈Sコスメティックス〉が創業されたのは、祖父が会長だった頃らしい。母も創業に一枚噛んでいたとかいなかったとか。「……あの、僕は何も用意していないんですが……」「ああ、私もなんだが」 女子二人のプレゼント交換を終えたところで、貢と父が申し訳なさそうに手を挙げた。「いいよ、気にしないで。二人はこのパーティーに参加してくれただけで十分だから」「そうですか? 何だか、招待されたのに手ぶらで来たのが申し訳なくて。……あ、そうだ。絢乃さん、後ほど少しお付き合いして頂けませんか? お見せしたいものがあるので」「……えっ? うん、いいけど」 彼がわたしだけにそっと耳打ちしてきたので、わたしはドキッとした。そんなわたしたちの様子を、両親と史子さん、里歩の四人がニヤニヤしながら眺めていた。 ――その後、わたしたちは部活の話題で盛り上がった。 里歩がバレー部のキャプテンで、花形ポジションのウィングスパイカーだと知ると、貢はしきりに感心してしまいにはセクハラまがいの発言まで飛び出した。わたしがその場でたしなめたけれど。 そして、彼はわたしと同じく帰宅部だったらしい。てっきり何か運動部に入っていたんだと思っていたわたしは、意外な事実に驚いた。 八時ごろに「疲れたから先に休む」と言った父を母が寝室へ連れていき、その三十分後に片づけを手伝ってくれた里歩が粉雪の舞う中を帰っていった。 そして、史子さんも他の家事をするためにリビングダイニングを出ていき、わたしと貢の二人だけになった。「――あの、絢乃さん。僕もそろそろ失礼しようかと思ってるんですが、よかったら今から僕の新車、ご覧になりますか?」「えっ?」「先ほど、『お見せしたいものがある』と言ったでしょう?」「あ……」 そう言われて、わたしはやっとピンときた。確かに彼は、プレゼント交換の時にそう言ってい
「やっと納車されたので、今日乗ってきたんです。絢乃さんに真っ先にお披露目するとお約束していたもので」「そういえば……、そうだったね。じゃあちょっと待ってて。部屋からコート取ってくるから」 外は雪が降っていて、タートルネックの赤いニットと深緑色のジャンパースカートだけでは寒いので、わたしは自分の部屋まで上着を取りに戻ろうとしたけれど。「お嬢さま、上着をお持ち致しましたよ」 絶妙なタイミングで、史子さんがわたしお気に入りのダッフルコートを抱えてリビングへ戻ってきた。「ありがとう、史子さん。じゃあ、ちょっと出てきます」「今日はお世話になりました。楽しかったです。それじゃ、僕はこれで失礼致します」 わたしは彼女に手を振り、彼は丁寧にお礼を言って、カーポートへ向かったのだった。「――これが僕の新車です」「わぁ、カッコいい! これってレクサスだよね?」 彼が披露してくれた新車は、〈レクサス〉のシルバーカラーのセダンだった。ちゃんと4ドア仕様で、内装はぬくもりを感じる濃いワインレッドのシート。父の愛車もレクサスだったけれど、色は紺色で型も少し古かった。「はい。内装も、絢乃さんに乗って頂くことを考えてこの色を選びました。どうですか?」「うん、すごくステキだし、乗り心地もよさそう。でも、どうしてわたしのためにそこまで?」 彼が新車をカスタムしたのは、わたしを乗せること前提だったように聞こえて、わたしは首を傾げた。「実は……ですね、こうしたのは僕の異動先にも関係があって……。もう、絢乃さんには申し上げた方がいいかもしれませんね。僕の異動先というのは、人事部・秘書室なんです」「秘書……?」 彼が覚悟を決めたように打ち明けたので、わたしは瞬いた。彼は父に死期が迫っていたことを知っていた。そして、父の後継者になるのはきっとわたしだということも。まさか父の死を予測してここまで準備していたわけではないだろうけど……。「はい。こういう言い方は誤解を招きそうですが、お父さまの跡を継がれるのは十中八九あなたでしょう。僕は万が一そうなってしまった時のために、異動や新車購入を考えていたんです。あなたを支えるため、あなたのお力になるために」 彼は誠実に、この決断に至った経緯をわたしに話してくれた。きっと彼の中で葛藤もあったんだろう。この話をしたことで、わたしを傷付けてし
「本当は、話すべきかどうか、ここに来るまで迷ってたんです。でも、絢乃さんが『もう覚悟はできている』とおっしゃったので、僕も打ち明ける決心がつきました」「うん、大丈夫。パパのことはもう覚悟できてるし、貴方がパパの死を望んでたなんて思うわけないよ。だってわたし、貴方がそんな人じゃないってちゃんと知ってるから」「絢乃さん……」「だから桐島さん、これから先、わたしに力を貸して下さい。わたしのことを全力で支えて下さい。よろしくお願いします」 彼がここまで覚悟を決めている以上、わたしも半端な覚悟でいてはダメだ。そう思って、彼に冷えた右手を差し出した。「はい。誠心誠意、あなたの支えになります。こちらこそよろしくお願いします!」 彼は両手で、差し出したわたしの右手を握り返してくれた。「……絢乃さんの手、冷たいですね」「え……?」「ご存じですか? 手が冷たい人は温かい心の持ち主なんですよ。僕はよく知っています。絢乃さんがお父さま思いの心優しいお嬢さんだということを。そんなあなただからこそ、僕もあなたのお力になりたいと思ったんです」 彼の優しくて温かい言葉に、わたしの涙腺が緩みそうになった。彼はずっと見てくれていたんだ。父の病気が分かった時から、わたしがどれだけ父のことで心を痛めていたのかを。だから、八歳も年下のわたしにこんなにも優しく誠実に接してくれていたんだ――。「――絢乃さん、僕はそろそろ失礼します。明日も出勤なので。また何かあったら連絡下さいね」「うん。そっか、明日もお仕事じゃ、風邪ひいたら大変だもんね。気をつけて帰ってね。また連絡します」「はい。――それじゃ、また」 彼を見送った時、初めて「このまま帰らないでくれたらいいのに」と思ってしまった。淋しさで胸が苦しくなり、涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。 * * * * わたしは家の中に戻ると、二階へ上がる前に父が休んでいる両親の寝室に立ち寄った。「――パパ、具合はどう?」「……絢乃か。お前、コートなんか着て、どこかへ行っていたのか?」 わたしの声に目を覚ましたらしい父が、答える前に目を丸くした。「ああ、うん。桐島さんが帰る前に新車見せてくれるって言うから、見送りがてら一緒にカーポートまで。里歩もそのちょっと前に帰ったよ」「そうか」と父は起き上がることなく頷いた。もう起き上がること
「絢乃、クッションありがとうな。これがあるだけで、背中が少し楽になったよ」「喜んでもらえてよかった。まぁ、気休めにしかならないだろうけど」「絢乃、……お前、泣いているのか? 何だか目が赤いぞ」「えっ? 泣いてないよ、今は。さっきね、桐島さんがすごく優しい言葉をかけてくれて、それでグッときてちょっと泣いちゃっただけ」 彼は「手が冷たい人は温かい心の持ち主だ」って言ったけれど、そう言った彼の手も少しヒンヤリしていた。貴方の心も十分あったかいよ……。「そうか、桐島君が……。彼がいてくれたらお前も安心だな。彼が秘書室へ異動したことは知っているか?」「うん、さっき本人から教えてもらったよ。わたしを支えるためだ、って」 それはつまり、わたしが正式に父の後継者候補となったということなんだとわたしは解釈した。そしてその解釈が正しかったことを、父の次の言葉で確信した。「実はそうなんだ。お母さんも同意のもとで、もう遺言書も作成してあってな。そこで正式にお前を後継者として指名した。絢乃、お前の意志を確かめず勝手に決めてしまったが、これでよかったのか?」 その話は初耳だったけれど、わたしの心はもう決まっていた。この家に一人っ子として生まれた以上、これはわたしが背負っていく運命なんだと。何より、それが父の最後の望みだったから――。「うん、大丈夫。もう覚悟ならできてるから。パパには色んなこと教わってきたし、教わってないことも周りの人に助けてもらいながら頑張ってみるね」「そうか、よかった。これで、この先も篠沢グループは安泰だな」 父はわたしの答えに満足したらしく、安らかな笑みを浮かべていた。「それじゃ、お父さんはまた眠らせてもらうよ。おやすみ。――絢乃、お母さんと篠沢グループの未来をよろしく頼む」「……うん。おやすみなさい」 わたしも父に「おやすみ」の挨拶を返したけれど、最後の一言はわたしへの遺言だと思った。 ――もっと強くならなきゃ。そう決意したのは、多分この夜だったと思う。もう泣いてなんかいられない。わたしが父の代わりに母とグループを守っていかなきゃいけないのだから……と。 そして、父とまともに会話ができたのは、その夜が本当に最後となってしまった。
* * * * ――父はその翌日から昏睡状態に陥(おちい)り、母が呼んだ救急車で後藤先生が勤務されていた大学病院に搬送された。いくら本人が入院を拒否していたとはいえ、この時ばかりはそんなことに構っていられなかったのだ。 そして、年明け間もない一月三日の朝――。「――一月三日、八時十七分。死亡確認しました。……本当に残念です」 先生からの連絡で朝早くから病院に駆けつけていた母とわたしは、後藤先生から父の永眠を伝えられ、母はその場でわたしにしがみついて泣き崩れた。でも、わたしは泣かなかった。もちろん悲しかったけど、いちばん悲しいのは母だと思うと申し訳なくて泣けなかった。 ベッドの上に横たわっていた父の亡骸(なきがら)は、ただ眠っているだけのように安らかだった。また目を覚まして、わたしたちに「おはよう」と笑いかけてくれるんじゃないか……。ついそんなことを考えてしまった。「私は医師として、患者の最期は何度も看取ってきたはずなんですが……。井上の死は本当に残念でなりません。医者が泣いてはいけないと分かってはいるんですが……」 後藤先生もショックを受けてしゃくり上げていた。確かに、医師が患者の死を看取るたびに泣いていたんじゃキリがないだろうし、冷静に受け止めなきゃいけないんだろうけれど。さすがに親友が旅立ってまで冷静沈着ではいられないだろう。親友である父のために、もっとできることがあったんじゃないかと後悔の念に苛(さいな)まれていたに違いない。「先生、顔を上げて下さい。先生は最後まで、父の治療を頑張ってくれたじゃないですか。おかげで父は安らかに旅立っていけたと思います。本当にありがとうございました。父が、お世話になりました」 本当なら母が言うべきだったことを、わたしは号泣していた母に代わって言い、先生に頭を下げた。それでも涙は出なくて、自分でも何て冷たい娘だろうと思ってしまった。「――パパ、今までホントにありがとう。お疲れさま。もう苦しまなくていいからね。後のことはわたしに任せて、天国でゆっくり休んでね。……バイバイ、パパ」 わたしは精一杯の別れの挨拶をして、「ママ、そろそろ帰ろう」と背中をさすりながら母を促した。母は喪主となり、葬儀社の手配やグループの顧問弁護士の先生などに連絡したりしなければならなかったからだ。 そして、一族の中で母や父の
――タクシーで家に帰ると、わたしは部屋へ戻ってすぐに貢へ電話をかけた。「桐島さん、……パパが、今朝早くに亡くなりました。すごく穏やかな最期だった」『そうですか……。わざわざご連絡ありがとうございます』 彼はわたしが強がっていたことに気づいていたと思う。そのうえで、あえてわたしにお礼だけを返してくれた。「これからママが葬儀社の人に連絡して、葬儀の打ち合わせをするんだけど。多分、パパの遺志を尊重して社葬っていう形になると思うの。桐島さんも参列してくれる?」『もちろんです。その時には、絢乃さんの秘書として参列させて頂きますね。まだ正式な辞令は下りていませんけど』「うん、ありがと」 電話を切った後、今度は里歩にも電話で父の訃報を伝え、アメリカに住む井上の伯父にはメールで父の死を知らせた。 * * * * 父が亡くなった日が友引だったため、翌日の夜がお通夜となり、そこで父の遺言書が公開された。 父個人の財産だった数十億円の預貯金は、母とわたしとで半分ずつ相続することになった。ここまではよかったのだけれど、問題は〈篠沢グループ〉の経営に関する項目だった。 後継者としてわたしが会長に就任することが望ましい。そして、グループ企業全社の資産・株式・土地・建物の権利もすべてわたしに譲る。――当然、この内容に反発する人たちが出てきて、母だけでなくわたしまでその人たちに敵視される事態となってしまった。「……絢乃、これで本当にいいの? あなたまであの人たちに恨まれることになるけど」 わたしのメンタルに受けるダメージを心配してこっそり耳打ちしてくれた母に、わたしは作り笑いを浮かべて「大丈夫」と頷いた。 この時から、わたしは悲しみや怒り、悔しさなどネガティブな感情を表に出さないようにしようと決めた。自分の心の中だけで消化してしまおう、と。 反対派の人たちとの争いは、翌日執り行われた父の社葬の後、振舞いの席に第二ラウンドを迎えることになった。 * * * * ――父の社葬は、篠沢商事本社ビルの大ホールで営まれた。お世辞にも〝しめやか〟とは言い難(がた)い式で、ホール内には殺伐(さつばつ)とした空気が流れていた。 式を取り仕切っていたのは、貢も少し前まで在籍していた総務課。受付には黒のスーツ姿の女性社員が座っていて、司会進行は貢の同期だという男性が務め
「里歩、来てくれてありがと。おじさまとおばさまは?」「どうしても外せない用事があってさ、今日はあたしが名代(みょうだい)で来た。香典も預かってきたよ」「そう。里歩ちゃん、ご苦労さま」 泣き笑いの表情で里歩に接していた母とは対照的に、わたしは上辺だけの笑顔を薄っすら浮かべていただけだった。父を失ってすぐに親族から負の感情を向けられたわたしは、防御策として心をフリーズさせることにしたのだ。「……絢乃、アンタ大丈夫? 相当ムリしてるっぽいけど、これじゃそうなっても仕方ないか」 会場に流れていたピリピリした空気に、里歩も気づいていたらしい。「アンタの一族、かなり荒れてるとは聞いてたけど、ここまでひどいとはねぇ」 彼女は慰めるようにわたしの肩を叩きながら、露骨に眉をひそめた。「大丈夫だよ。あんなの放っとけば。わたしは別に何とも思ってないし」「それならいいんだけどさ。あたし、式の間ずっとアンタの隣に座ってるから。何かあったら言いなよ?」「うん、ありがと」 そんなわたしたちのところへ、黒のスーツに黒いネクタイを締めた貢もやってきた。「――桐島さん、ご苦労さま」「絢乃さん、この度はご愁傷さまです。――ああ、里歩さんも来て下さったんですね。ありがとうございます」「ああ、いえいえ。ウチの両親も絢乃のお父さんにはお世話になってましたから。桐島さん、絢乃の秘書になったそうですね」 彼が秘書になったことは、前もって里歩にも伝えてあったのだけれど。「はい。絢乃さんはこれから篠沢グループを背負って立つ人ですから、僕でお役に立てることがあればと思って」「桐島さん、ちょっと厳しいこと言いますけど。絢乃の秘書になるってことは、この子に自分の生活全部をささげるってことだって分かったうえで決めたんですよね? あたし、あなたにいい加減な気持ちでそんなこと軽々しく言ってほしくないんです」「里歩! それはちょっと言い過ぎだよ!」「いえ、いいんです。もちろん、僕もそのつもりでいますよ。絢乃さんのことは僕が全身全霊お守りすると決めましたから」 困惑して親友をたしなめたわたしに、彼は本気の覚悟を見せてくれた。「……それならいいんです。ごめんなさい、偉そうなこと言っちゃって。絢乃のこと、これからよろしくお願いします。――絢乃、ホントごめん」「ううん、いいよ。ありがと」 わ
「貴方は出会ってから、わたしに色んなことを教えてくれたよね。パパの余命を前向きに捉えることとか、悲しい時には思いっきり泣いていいんだってこと、緊張した時のおまじない、それから」「えっ、そんなにありましたっけ?」 彼はここで驚いたけれど、わたしがいちばん伝えたい大事なことはこの先だ。「うん。……それから、恋をした時の喜びとか苦しさも、わたしは貴方から教えてもらったの。だから、この先もずっと貴方に恋をし続けていくよ」「はい。僕も同じ気持ちです。あなたに一生ついて行きます」「だから、それって花嫁のセリフだってば」 わたしはまた笑った。「――絢乃、桐島くん。式場のスタッフが呼んでるわよ。『そろそろフォトスタジオにお越し下さい』って」 控室のドアをノックする音がして、オシャレなパンツスーツを着こなした母が一人の中年男性を伴って入ってきた。「はい、今行きます! ――絢乃さん、では僕は先に行っていますね。フォトスタジオでお待ちしています」「うん、分かった。また後でね」 控室を後にする彼を振り返ったわたしは、母と一緒に立っている人物に目をみはった。 父に顔はよく似ているけれど、父より少し年上の優しそうな紳士――。「やぁ、絢乃ちゃん。久しぶりだね。結婚おめでとう」「聡一(そういち)伯父さま……」 それは、アメリカから帰国した父方の伯父、井上聡一だった。伯父にも招待状を送っていて、出席の返事はもらっていたけれど、どうして母と一緒に控室を訪ねてきたのかは分からなかった。「今日は、来てくれてありがとう。……でも、どうしてわざわざ控室まで?」「加奈子さんに頼まれたんだ。源一の代わりに、絢乃ちゃんと一緒にバージンロードを歩いてほしい、って。私は父親じゃないが、君の親族であることに変わりはないからね」「…………伯父さま、ありがとう……。パパもきっと喜んでくれてるよ……」 伯父の優しさが心に沁みて、わたしは感激のあまり泣き出してしまった。「あらあら! 絢乃、泣かないで! せっかくキレイにメイクしてもらったのに崩れちゃうわ」「うん、……そうだね。こんな顔で行ったら貢がビックリしちゃうよね」 慌てる母に、わたしは泣き笑いの顔で頷いた。 その後母に呼ばれたヘアメイク担当のスタッフさんにお化粧を直してもらい、わたしはウェディングプランナーの女性に先導され、母
彼はブルーのアスコットタイを結んでいる。これは「サムシング・ブルー」になぞらえたらしいのだけれど……。「貢……、それって新婦側の慣習じゃなかったっけ?」 わたしは婿を迎え入れる側だけれど、とりあえずこの慣習を取り入れてイヤリングと髪飾りをブルーにした。でも、新郎側がこれを取り入れるなんて聞いたことがない。「まぁ、そうなんですけどね。僕も気持ちのうえでは嫁(とつ)ぐようなものなので」「……そっかそっか。まぁいいんじゃない? 今は多様性の時代だしね」 何も古くからのしきたりに囚(とら)われることはないのだ。これがわたしたちの結婚の形、と言ってしまえばそれまでなんだから。「ところで貢、知ってた? ママがこれまで断ってきた、わたしの縁談の数」「いいえ、僕は聞いたことありませんけど。……どれくらいあったんですか?」「聞いて驚くなかれ。なんと二百九十九人だって!」「えっ、そんなにいたんですか!? 逆玉狙いの男性が」 彼はわたしの答えを聞いて、愕然となった。彼の解釈は間違っていない。「ママね、わたしが小さい頃からずっと言ってたの。『絢乃には、本心から好きになった人と幸せを掴んでほしい』って。よかったよー、貢がその中に入らなくて」「そうですね。これが絢乃さんにとって、いちばんの親孝行ですよね」「うん。わたし、貢となら絶対に幸せになれると思う。やっぱり、貴方とわたしとの出会いは運命だったんだよ。貴方に出会えて、ホントによかった」「僕も、絢乃さんに出会えてよかったです。もう二度と恋愛なんてゴメンだと思ってましたけど、そんな僕をあなたが変えて下さったんです。ありがとうございます」 こうして向かい合って、お互いに感謝の気持ちを伝え合えるってステキなことだとわたしは思う。この先もずっと、彼とはこういうステキな夫婦関係を築いていきたい。「絢乃さん、こんな僕ですが、末永くよろしくお願いします」「……何かそれ、もう完全に花嫁さんのセリフだよね」 思いっきり立場が逆転しているなぁと思うと、わたしは笑えてきた。「でも、わたしたちって最初っから一般的なオフィスラブと立場が逆転してるんだよねぇ」「……まぁ、確かにそうですよね」 貢もつられて笑った。今日みたいないいお天気の日には、笑顔での門出が似合う。梅雨の時期なのに今日は朝からよく晴れていて、絶好の結婚式日
――こうして、わたしと貢の関係は恋人同士から婚約関係となった。ちなみに、あの騒動のおかげでわたしたちの関係は世間的に公になったのだけれど、これは喜ぶべきだろうか? 真弥さんはあの日撮影した映像を、自分のアカウントでもXにアップしていて、その投稿は見る間に拡散したらしい。〈彼氏登場! いきなりハイキックとかカッコよすぎww〉〈彼氏、ヒーローすぎてヤバい〉 などなど、称賛のコメントと共に思いっきりバズっていた。 去年のクリスマスイブは彼と二人きりで過ごし、婚約指輪はそこでクリスマスプレゼントとして彼からもらった。小粒のダイヤモンドがはめ込まれたシンプルなプラチナリングで、多分価格もなかなかのものだったはず。彼の男気を感じて嬉しかった。 誕生日にもらったネックレスとともに、この指輪もわたしの一生の宝物になるだろう。 その夜は彼のアパートに泊まり、彼の小さなベッドの上で一緒に朝を迎えた。わたしの後から起きてきた彼と目を合せるのが照れ臭かったことが忘れられない。でも、それが結婚生活のリハーサルみたいに思えて、心躍ったのも確かだ。 三月の卒業式には、母と一緒に貢も出席してくれたので驚いた。母の話によれば、その日は一日会社そのものをお休みにしたんだとか。会長の新たな出発の日だから、社員一丸となってお祝いするように、と。「ママ……、何もそこまでしなくても」と呆れたのを憶えている。 四月最初の日曜日、両家顔合わせの意味も込めて我が家で食事会をした。料理は専属コックさんと母、わたしと史子さんで腕によりをかけて作り、デザートのイチゴのシフォンケーキもわたしが作った。桐島さんご一家のみなさんも「美味しい」と喜んで、テーブルの上にところ狭しと並べられた料理を平らげて下さった。 そこで、わたしと貢は驚くべき事実を知った。なんと、悠さんがお付き合いしていた女性と授かり婚をしたというのだ! 顔合わせの席にはその奥さまもお見えになっていて、お名前は栞(しおり)さんというらしい。年齢は貢の二歳上で、悠さんが店長を務められているお店の常連客だったそう。そこから恋が始まり、お二人は結ばれたというわけだった。……ただ、順番が違うんじゃないだろうかと思うのは考え方が古いのかな……。 そこから彼が我が家で同居することになり、二ヶ月が経ち――。 本日、六月吉日。愛する人と二人で選
「――絢乃さん、僕、覚悟を決めました。あなたのお婿さんになりたいです。僕と結婚して下さい。お父さまの一周忌が済んで、絢乃さんが無事に高校を卒業して、そうしたら。……で、どうでしょうか」「はい。喜んでお受けします!」 彼からの渾身のプロポーズに、わたしは喜び全開で頷いた。エンゲージリングはまだなかったけれど、気持ちのうえではもう、二人の結婚の意思は確固たるものになっていた。 思えば初めてわたしの気持ちを彼に伝えた時、子供っぽい告白になってしまった。でも今なら、彼にとっておきの五文字で想いを伝えられるだろうか。あの時から少し大人になったわたしなら……。「貢、……愛してる」「僕も愛してます、絢乃さん」 わたしたちは熱いハグの後、長いキスを交わした。「――ところで、絢乃さんは高校卒業後の進路、どうされるんですか? 僕、まだ教えて頂いてないんですけど」 帰り道、彼が器用にハンドルを切りながらわたしに訊ねた。……おいおい、今ごろかい。「わたしね、大学には進学せずに経営に専念しようと思ってるの。やっぱり好きなんだよね、会長の仕事とか会社が」「……なるほど」「ママは最初、大学に進んでもいいんじゃないか、って言ってくれたんだけど。最後には折れてくれたの。わたし、これまでよりもっともーっと会社に関わっていきたいから」「加奈子さん、絢乃さんに甘々ですもんね」「うん、まぁね。ちなみに、里歩は大学の教職課程取って、高校の体育教師目指すんだって。唯ちゃんはプロのアニメーターを志して、専門学校に進むらしいよ」 卒業後の進路はバラバラでも、わたしと里歩、唯ちゃんとの友情はこれから先も変わらない。きっと。
「――改めて、貴方には心配をおかけしました」 わたしはいつもの指定席である助手席ではなく、後部座席で彼に深々と頭を下げた。「ホントですよ。あれほど無茶なことはするなと言ったのに。ヘタをすれば、絢乃さん、アイツにケガさせられてたかもしれないんですからね?」 彼はまだご立腹のようだった。でも、それはわたしのことが本当に心配だったからにほかならない。「だーい丈夫だって。そのためにあの頼もしいお二人にも協力してもらったわけだし。いざとなったらボディーガードをしてもらうつもりで――。まあ、結局は貴方に助けられたわけだけど」「イヤです」「…………は?」 彼に唐突に話を遮られ、わたしはポカンとなった。「イヤ」って何が?「あなたが他の人に守られるなんて、僕はイヤなんです。あなたを守るのは僕じゃないとダメなんです。……すみません、ダダっ子みたいなことを言って」「ううん、別にいいよ。貴方の気持ち、すごく嬉しいから」 むしろ、ダダっ子みたいな貴方が可愛くて愛おしくて仕方がないんだよ、とわたしは目を細めた。「でも、今日ほどわたしは貴方に守られてるんだなって思ったことはなかったかも。ホントにありがと」 わたしはいつも、自分が彼を守っているんだと思っていた。でも、時々こうやって自分を顧(かえり)みずに無茶なことをしでかすわたしを助けてくれているのは貢だった。それは秘書としても、彼氏としても。「わたし、いつもこうやって貴方のことを助けてるつもりでも、結局のところは貴方に助けられてるんだね」 父の病気が分かってショックを受けた時、父が亡くなった時、親族から心ない罵声を浴びせられた時。それから会長に就任した時もそうだった。彼はいつもさりげなく、わたしの心の支えとなってくれていたのだ。彼の優しくて温かい言葉に、わたしはどれだけ救われてきたか分からない。「今ごろ気づかれたんですか? 僕の大切さが」「……うん、ごめん。でもありがと」「それにしても、僕を守るなら他に方法くらいあったでしょう? あえて僕と離れて、中傷の目を遠ざけるとか」「それは、わたしがイヤだったの。たとえ貴方を守るためでも、貴方と離れるなんてダメだと思った。だったら、一緒にいながら貴方を守る方法を取った方がいい、って。……まぁ、その分お金はかかったし、ちょっと危ない橋も渡っちゃったけど」 傍から見れば
――作戦は無事成功したものの、わたしは何だかワケが分からなかった。わたしもまたドッキリにかけられたような気持ち、というのか……。「……どうして貢がここに? 打ち合わせでは、あの場で登場するのは内田さんだったはずじゃ」「ああ、内田さんから連絡を頂いたんです。今日、絢乃さんが危ない目に遭うかもしれないから、新宿駅前に来てほしい、って」「相手が激昂してる時に、見ず知らずの男が現れたら事態が余計に悪化するかもしれないと思ってな。ここは格闘技を習得した彼氏に花を持たせてやった方がいいかな、って」「内田さん、そういうことは事前に教えておいてくれないと。わたしをドッキリにかけてどうするんですか!」 そういう問題じゃない気もしたけれど、わたしはとにかく一言抗議しないと気が済まなかった。「悪い悪い。でも、桐島さんが間に合ったんだからよかったじゃん」「そうですよ! 僕が間に合ったからよかったですけど、下手したら絢乃さん、本当に危ないところだったんですからね!?」 彼が怒っているのは、わたしのことを本気で心配してくれていたからだ。だからわたしは叱られているのに嬉しかったし、自分の無謀な行動を猛省した。「……ごめんなさい」「でも、無事でよかった……。本当によかった」 彼は深いため息をつくと、ここが公衆の面前だということもお構いなしにわたしをギュッと抱きしめた。「ちょっ……、貢……?」 彼はわたしを抱きしめたまま震えていた。泣いてはいないようだったけれど、それだけでわたしへの心配がどれくらいのものだったかが伝わってきた。 わたしは彼の背中に手を回し、そっと背中をさすった。父の葬儀の日、泣けなかったわたしに彼がそうしてくれたように。「ごめんね、貢。心配かけちゃって、ホントにごめん。……でも、心配してくれてありがと。もっと他に方法はあったはずなのにね。わたし、これくらいの方法しか思いつかなくて」 路上で抱き合っていると、周りが何だかザワザワと騒がしくなってきた。「……とりあえず、クルマに乗って下さい。話はそれからです」「そう……だね」 これ以上のイチャイチャは人目が気になるので、わたしたちは彼のレクサスへと移動することにした。「じゃあ、あたしたちもこれで撤収しまーす♪ あとはお二人でどうぞ♪」「絢乃さん、オレたちこれで五十万円分の働きはしたよな?」
何が起きたのか分からずパニックになっていたわたしを庇うように立ちはだかり、小坂さんにハイキックを一発お見舞いした。「ハイキック、初めて当たった……」 「…………!? な……っ」 一瞬で吹っ飛ばされた小坂さんは、この状況が吞み込めないらしかった。 わたしも呆然となっている場合じゃなかったと気を取り直し、強気な顔に戻った。「真弥さん、今の撮れた?」「はいは~い♪ もうバッチリ」 わたしが目配せすると、建物の陰からスマホを構えた真弥さんと、その後ろに控えていた内田さんが姿を現した。「アンタの裏アカ、あたしが乗っ取っちゃいました☆ 今ねぇ、この様子の一部始終が全国のアンタのファンに垂れ流されてんの。これでアンタ、俳優としても終わったねぇ。はい、ご愁傷さま」「小坂さん、貴方はこれまでにどれだけの女性を弄んで傷つけてきたんですか。女性だけじゃない。わたしの大切な人まで晒しものにした! 貴方、人の気持ちを何だと思ってるんですか! わたし、貴方のことを絶対に許しませんから!」「あんた、どうせ逆玉狙って絢乃さんとお近づきになりたかっただけでしょ? もうバレバレ。甘いんだよ、その考えが」 せせら笑うようにそう言って、真弥さんが腰を抜かしている小坂さんを見下ろした。「わたしは正式に、貴方を名誉毀(き)損(そん)で訴えます。顧問弁護士にはもう、訴訟を起こす準備を整えてもらってるので。ちなみに貴方、事務所をクビになってて後ろ盾はなくなったんですよね? というわけで、訴える相手は貴方個人です。覚悟しておいて」 わたしは次の一言で、彼に完全にトドメを刺した。「この件で、貴方は完全に社会から抹殺されるでしょうね。ご愁傷さま。女をなめるのもいい加減にして!」 この後パトカーが到着し、小坂さんは警察へ連行されていった。前もって内田さんが通報していたのだ。 こうしてイケメン俳優への反撃作戦は幕を下ろしたのだった。
「わたしの親友が貴方のファンなんです。五月に豊洲で主演映画の舞台挨拶なさってたでしょう? 彼女、部活があったから行けなくて残念~って言ってました」 これも真赤なウソっぱちだ。里歩はその頃とっくに彼のファンを辞めていたので、行きたがるわけがないのだ。「へぇ、そうなんだ? 嬉しいなぁ」「豊洲っていえば、ちょうどあの日、わたしもあのショッピングモールにいたんですよ。彼氏と二人で。偶然ですねー」 わたしは彼が気をよくした手ごたえを得ながら、ちょっと強気にカマをかけてみた。「へ、へぇー……。すごい偶然だねぇ。っていうか君、彼氏いるんだ? もしかして、撮影の時に一緒にいたあの男?」 彼は平然を装っていたけれど、明らかに動揺していた。わたしはこんな言葉使わないけれど、里歩や真弥さんなら「ざまぁ」と言うところだろう。「ええ。八歳年上の二十六歳で、わたしの秘書をしてくれてます。お金持ちの御曹司っていうわけじゃないですけど、すごく優しくて頼りになるステキな人です。実はわたしたち、結婚も考えてて。でも彼は決して逆玉狙いなんかじゃなくて、わたしのことを本気で大事に想ってくれてる人なんですよ。わたしも彼のこと、すごく大切に想ってます」「へぇ…………。じゃあ、なんで君は今日、俺を誘ってくれたの? そんな挑発的なカッコして、コロンの匂いまでさせて。……もしかして、俺を誘惑しようとしてる? 彼氏から俺に乗りかえるつもりとか」 この人、どこまで自分大好きなんだろう? きっと今までも、こうやってどんなことも自分に都合のいいようにしか考えてこなかったんだろう。「まさか」 わたしは鼻で笑い、彼をどん底に突き落とす宣告をした。「貴方が、その大事な彼を貶めるようなことをしたから、反撃しに来たんです。貴方が裏アカまで作って、彼に嫌がらせをしてきたから。わたしが分からないとでも?」「……っ、このアマ……」「ちゃんと調べはついてるんですよ。だからわたし、逆にそのアカウントを利用しようって考えたんです。貴方の本性を、ファンのみなさんにさらけ出すために。こうやって誘い出せば、プレイボーイの貴方のことだから食いついてくれるだろうと思って。でもまさか、こんなにホイホイ誘いに乗ってくるなんて思わなかった!」 ここまで上手く引っかかってくれるなんて思っていなかったので、わたしは笑いが止まらなくな
――わたしと〈U&Hリサーチ〉の二人で決めた作戦は、小坂リョウジさんの裏アカウントにDMを送り、真弥さんがそのアカウントをハッキング。彼をウソの誘い文句でおびき寄せて二人で会っているところを真弥さんに乗っ取った彼の裏アカでライブ配信してもらい、彼が本性を現したところでそのことを彼に暴露するというもの。よくTVのバラエティーでやっているドッキリ企画に近いかもしれない。 万が一のことを考えて、わたしは内田さんと真弥さんと連絡先と名刺を交換した。貢の携帯番号も教え、わたしの身に危険が迫った時には最終手段として彼に知らせてほしい、と内田さんにお願いした。 この作戦については話していないけど、調査については貢にも伝えてあった。調査料金として五十万円を支払ったことには、「そんな大金を払ったんですか!? 絢乃さん、金銭感覚バグってるでしょう絶対!」と呆れられた。わたし自身もそう思うけれど、彼を守るためなら一億円出したっていい。彼の存在は、決してお金には代えられないから。 顧問弁護士である唯ちゃんのお父さまにも、小坂さんを訴える準備をして頂いた。真弥さんにもらった調査内容はその証拠としてお預けした。ただ、正規ではない手段で手に入れた情報なので証拠能力がどうなのかは分からないけれど……。 ――そして、作戦決行の日が来た。 その日は土曜日で、貢には前もって「ちょっと用事があるから」とデートの予定を外してもらった。 内田さんの事務所を訪れてから決行日までの数日間、わたしの様子がおかしかったことは彼も気づいていたかもしれない。もしかしたら彼は、わたしの浮気を疑っていたかもしれないけれど、その心配なら皆無だ。内田さんには真弥さんという可愛い恋人がいるわけだし、わたしには貢しかいないのだ。 SNSでの誹謗中傷は、もうこのネタが飽きられていたのかパッタリ止んだ。その代わり、真弥さんが調べてくれた小坂さんのある情報が、Xで拡散されていった。彼はお付き合いしていた女性と破局するたびに、リベンジポルノを仕掛けていたらしいのだ。――これもまた、三人で練った作戦の一部だった。 普段よりちょっと露出度高めの服装をして、わたしは新宿駅前でターゲットを待ち構えた。少し離れた場所では、自撮りするフリをしてアウトカメラでスマホを構えた真弥さんと内田さんも待機していた。「――CM撮影の時以来かな